桐生タイムス_20120112 | 語り継ぐ戦争 60数年の宿題、岡田晴峰の「千人針」

きょうの夕刊

LinkIconニュース一覧へ

語り継ぐ戦争 60数年の宿題、岡田晴峰の「千人針」

2010-8-12

 絹地に描かれた虎の絵がある。眼光鋭く躍動する虎に「武運長久 征万里必帰来万里 為田中文夫君 晴峰謹冩」の文字が添えられている。21歳で出征した田中文夫さん(87)=桐生市堤町一丁目=が肌身離さず腹に巻いていた「千人針」に縫い込まれていたものだ。田中さんはフィリピンのマニラ郊外で爆撃に遭って瀕死(ひんし)の重傷を負い、病院船で送還されたが、残った部隊は全員、壮烈な戦死を遂げたと後に聞かされた。「戦場から生きて帰るには、何重もの運がなければ…」という田中さん。その体験を語ることは「六十数年にわたる宿題でした」という。敗戦後も他人に見せることなく大切にしてきた虎の絵を、桐生市立西公民館で15日まで、初公開している。
 田中さんは昭和18年(1943年)、東国民学校の教員になった。小さいころから読書と絵が好きだったが虚弱で、夏に受けた徴兵検査では第二乙種合格。それでも翌年2月に召集令状が来た。母が奔走して「千人針」を作ってくれた。多数の女性が糸を結ぶお守りで、菱町の親せき宅に行くと南画家の岡田晴峰が「お国のためにご苦労さまです。私はお針ではご奉公できませんから絵を描かせてもらいます」と、その場で描いてくれたという。千人針も寅(とら)年の女性は年の数だけ縫えるとされ、千里を行って千里帰るという虎だが、「万里」の祈りが込められた。
 田中さんは本町五丁目上州屋の子息で1歳年下の竹内滋雄さんと共に桐生駅をたつと、横須賀海兵団で3カ月、さらに砲術学校で25ミリ対空機銃の訓練を受け、佐世保港へ。ルソン島派遣の輸送船団が編成され10月中旬に出港した。その夜から潜水艦の魚雷攻撃が始まり、日に日に激しさを増した。僚船が黒煙、火柱を上げるなか、黒い空と海の間を一条の青白い雷跡が真っすぐに向かってきた。いまでも目の奥に焼きついている光景だという。船は30度傾いたまま静止、翌日護衛艦に救助され、さらにタンカーに乗り換えてマニラ港に入ることになる。
 水も食糧もないまま大嵐をぬって上陸したときは「もう沈むことはない」と安堵(あんど)。そして郊外の飛行場警備につく。広い草原に滑走路は1本だけ、ここで「ホタルの木」を見た。12月でありクリスマスツリーかと思うほど美しかった。やがて米軍機の急降下攻撃が続き、対空機銃で応戦するも弾薬を使い果たしてしまう。補給はなく、すでに制海権も制空権もないことはわかっていた。
 十数日後の深夜、穴を掘ってつくった壕舎で熟睡中に大型機の爆撃に遭う。田中さん一人、左肺破裂左手複雑骨折などの重傷を負い、マニラ海軍病院に収容される。意識が遠のくなか、「若いから助かるかもしれないな」との小声が聞こえた。
 翌年1月に病院船で内地送還された。名簿にあったはずの名前が記載されておらず、あきらめかけたところを医師が交渉してくれ、乗ることができた。ただし空いていたのは手術室。毎日手術を見ることになるが、これが最後の病院船だったかもしれず「乗れなかったら自決していただろう」と思う一方、「戦友を残してきた後ろめたさ」が付きまとった。
 「マニラを出るとき竹内君は『元気になって戻ってこいよ』と見送ってくれた。ずっと一緒だった、唯一の戦友でした。戦後しばらくして、滋雄君たちの隊は6月に斬(き)り込み作戦を敢行して全滅したと、お父さんに聞きました。いまも美しい笑顔が浮かびます」
 当時の日記など一切ない。シラミの巣になった千人針の中でもにらみを利かせて守ってくれた虎の絵に残る幾重のしみは、万感の記録でもあろう。8月16日に召集解除されて桐生に戻り、復職した。戦後は美術教育にも大きな変革があった。
【メモ】岡田晴峰(おかだ・せいほう、1895〜1966年)=毛里田村(現太田市)に生まれ画家を志して上京、館林出身の小室翠雲の門下生となり、27歳で日本南画院展に初入選。帝国美術院展でも特選を受賞するなど活躍。南画独特の水墨の味を生かしながら新しい画風を求めて独自の道を開いた。30歳で鈴木ハマと結婚し桐生に居住、墓所は西久方町の青蓮寺。