桐生タイムス | 読み解くという想像力

論説

読み解くという想像力

2011-12-27

 群馬県勢を表した古い資料に1881年刊行の「群馬縣統計表」がある。80年の1年間で把握して、分野別にまとめた記録だ。
 たとえば農事を拾うと、この年の田植えがもっとも早かったのは桐生が属する山田郡の5月1日であり、一方稲刈りは山田郡が17郡中の8番目になり、こういう違いがどこから生まれるのか、地域産業との関連性から詰めていくと面白くなりそうな数字が多い。
 さてここに「橋梁」という項目があって、桐生では広沢村地内の広沢橋、新宿村の川島原橋、そして、広沢村と境野村の境界にあった友之助橋と、渡良瀬川にかかる当時の橋が三つ記述されている。
 友之助橋はいまの太田頭首工の近辺にあった。「舩」と注意書きされているのは船も使われていたという意味だろうと、これは読解を助けてくれた専門家の話。川島原橋(錦桜橋の下)は「木」と記されており、広沢橋(間ノ島)もやはり「舩」の注釈入りだった。
 これとは別に「渡口」という項目があり、桐生では「桐生新町と下新田の境」がひとつだけ載っている。これがおそらく、渡良瀬川をまたいで元宿と下新田を結んでいた赤岩の渡しのことである。
 赤岩の渡しは、1902年の皇太子来桐の折に赤岩橋が新設されるまで使われていた渡し場で、船の行き来のほか、水量の少ない冬に限って仮橋がかけられていた。
 では、船も使われていた「橋」と、仮橋もあった「渡口」との違いは何か。いったいどうしてこのような分類になっているのか。
 前出の専門家によれば、そこはいまの人が感じるほど、当時の人にはわかりにくいことではなかったようで、大きな川の流れには中州というものができ、中州の一方に橋がかけられて、一方が渡しになっている場所が「橋」に分類されていて、赤岩のように常設でないところが「渡口」になっているのだろうと説明され、納得した。
 「橋梁」の梁には船橋の意味が含まれているという。足利の昔の絵はがきに、つないだ船の上に板を渡した船橋の図があるが、こういう橋が桐生にないのはなぜかといえば、船橋とは、船や筏の往来の要衝にあって、海運に支障をきたさないように開閉が可能な機能を持った橋だから、往来のない上流域には必要がなかったのだ。
 「だって、人力で流れをさかのぼるのは、どんな力業を駆使しても足利までがやっと」と、ここまで聞いて、当時の海運と橋、渡しの関係がぐっと立体的になった。
 どんなに必然的な理由があっても、生きた歴史をさかのぼる作業は力業だけでは難しい。逆流をこぎ進んでいける想像力の櫓。そして、未来を読む作業にも同じものが必要なのだと、改めて思う。